海へ

波打ち際の泡のように

浮かんでは消える

悲しい気持ちも

過去からふいに押し寄せてくる

後悔の波も

海へ還してしまおう

本を閉じるように、ここら辺で一区切り

目を閉じて、ゆっくり息を吐いてから

もう一度ページを開けば

未来から届く、光を見つけられるはず

そうしてまた

新しく、物語のつづきが始まる

tale / tarot by the sea

Nude Veritas

以前 Instagramにも投稿したことがあるのですが、クリムトの”ヌーダ・ヴェリタス 裸の真実”という作品は私にとって特別な絵です。

高校生の時に無性に一人で観に行きたくて美術館に行き、長い時間この絵と向かい合っていたことが、まるで夢の中の出来事のようでした。

その美術展のタイトルは「象徴派展」。
(象徴派とは、目に見えない世界を象徴的に表現しようとした流派です)

過去と現在を繋いでいる、というだけではなく、私のテーマがこの絵には詰まっているような気がしています。

真実を表す鏡(水晶の説もある)を持った裸の女性の絵。

そして絵の上の部分には、詩人であるシラーの言葉が刻まれているのですが、

「汝の行いと芸術で多くの人々を満たせないなら、少数の人の真の喜びのためにそれを成せ。万人に好まれようとするのは罪悪である。」

という意味であることを初めて知ったとき、表現や芸術に対するとても強い意志を感じはしたものの、自分とは関係が無いことのように思っていました。

けれど、やっぱりこれは私に対するメッセージだったと、今ではそう思います。

「多くの人に好かれようとして自分を偽るのではなく、真の自分を見せてゆけ」

ずっと自分のことを、「私はどこかおかしい人間なんだ」と思っていました。
ここに居てはいけないような、、、どこにいても自分の居場所がない、そんな感覚。

ここに居ていいんだと思えるようになるには、社会に必要とされなくてはいけない。
その為にも自分を良くしていかなくては、自分を変えなくては、違う自分にならなくてはいけない。
ずーっとそんな感じでした。

けれど、私に必要だったのは、そのままの自分を受け入れる”surrenderー降伏する” ことだったのです。

社会に適応できないのが私なんですね。でも、社会の外にいるからこその視点を持つことができる。
それが私の魂の目的なのかなと、そう思っています。

降伏するというのは、ただ諦めるというより”宇宙にお任せする”という方がしっくりきます。

私は”ダメなところを改善するため”にタロットをするのではなくて、”宇宙の意図を知って、委ねるため”にしている。

委ねるのが苦手な私のところに、真実を表わす鏡の役割として来てくれたのがタロットカードなのです。

似たタイプの無敵なふたり・・・

時間の流れと、永遠

桜を見ると、様々な過去の記憶がよみがえる。
ほとんど無意識に、勝手に映像が再生されていく。

桜の花の美しさに感動しながらも、胸が苦しくなるのは、
(年齢を重ねたことも理由の一つなのだろうけど、、、)
桜が満開の季節に起きた、悲しい出来事が思い出されるからなのかも知れない。

20代の頃、当時とてもお世話になっていた方が、自死で亡くなった。
斎場に向かう途中、何度も見掛けた満開の桜の花と青い空が、自分の心の状態とあまりにチグハグで、
私をすっかり置いてけぼりにした。

時間薬という言葉もあるように、
時の流れの中で、だいぶ気持ちは変化してきた。
それでも、
桜を見た後に残るのは、”なんだか切ない、悲しい” という感覚。


時を経て分かったのは、
悲しみが消えて無くなることはないということ。
そして、
ずっと同じ悲しみを抱え続けるのもまた、無理なことなのだということ。
私は忘れたくなかったし、忘れてはいけないと思っていた。

けれどそれは、いつまでも悲しみに浸っていたいだけなのかもしれない。
自分を許さないことで、過去に閉じこもっていたいのかもしれない。

まるで、桜が満開の季節が永遠に繰り返されると錯覚しているような気もして、
何か違う、つい最近そう思えた。


時は常に流れていて、止めることも、戻すこともできないけれど、
過去に起きた出来事の意味が、書き換えられるようなことが起こることがある。

その、起きた出来事の意味を書き換える力は、過去にも未来にもなく、
自分自身が、今を生きることの中にある。

そんなことを考えるのと同時に、

理由も意味も、何もわからないままでも良い。とも思っている。

わからないことを、まるごと受け取ることがでれば、それでいい。

そのままにする

すっかり久しぶりの投稿になってしまいました。

東京に緊急事態宣言が発出されてから、二週間ほどたちましたが、
状況は、あまり良くなったとは感じられません。

いったいこれからどうなるのか、不安がないと言えば嘘になる。。。
ですが、
不安な事を考えるくらいなら(嫌でも耳に入ってくるので、、)

美しいものを見ていたい、、、

YouTubeを隙あらば見ている日々です。
(つい先日、あるアーティストにすっかりハマってしまいました。。。”尊い”ってこういう感覚なのね、と強く実感しております)

それとは別に、

最近よく思い出すことがあります。

もう何年も前に、どこかで読んだ記事で、

ある著名なミュージシャンが、

『ライブが始まって、今日は調子が悪いな。と感じた時に、調子を良くしようとはせず、調子の悪いまま演奏することが大切。』

というような事をおっしゃっていて、なるほどなぁと私の深く心に残ったのでした。

つい、調子が良い時の自分を求めてしまう。
つい、少しでも良い状態にしようともがいて、余計に悪くなる。

みたいな事、私は本当によくあります。

ライブとかそんな特別な時でなくとも、日々感じていることですよね。

なんだか今日は調子が悪いな。とか、朝はいい感じだったのに、ちょっとした事で雲行きが怪しくなった。とか、、、

それを、なんとかしようとはせず、そのままにする。というのは、

私にとっては”目から鱗”でした。

それでよかったんだ〜と、心が楽になった、というか、
そうすればいいんだなと、ひとつヒントをもらった感じでした。

毎日は流動的なもので、同じような繰り返しの日々だと感じている時ですら、同じ日は1日もない。

自分の状態って、その日がスタートしてみないとわからないものですよね。

力を抜けば浮上するのに、もがいてよけい溺れる。

頭で理解していても、なかなか難しくて、
これまで何度もジタバタしてはグッタリするを繰り返してきましたが、

少しづつ、そのままに出来るようになってきたように思います。

力を抜くのが難しくても、ちょっと一呼吸おいて、自分との距離を取れるようになったような。。。

それでも落ち込むこともあります、、、そんな時は、とりあえずもう落ち込む!それで良しとする!

不安や心配を消そうとせず、かといってがっつり向き合うでもなく、

そのままにして、やり過ごす。

そして、好きなものに浸る。

ここ最近はそんな感じです。

あの日のハクビシン

つい先日、帰宅途中に夜の住宅地を歩いていた時のことです。
なんとなく目線を前方の斜め上に向けると、電線の上を器用にスイスイと歩く動物のシルエットが。
『猫?ではない!・・・ハクビシンかな?』

なんとか姿を確認しようと電柱に近づいたとき、私のことに気がついたようで、
こちらに顔を向けたまま、ピタッと動きを止めました。両者睨み合いです。
暗くてハッキリとは見えませんが、やはりハクビシンだなと私は確信しました。

家に着いたとき、先に帰宅していたパートナーにハクビシンと遭遇したことを話しました。
「電線を伝って歩いていたよ!」 そう私が言うと、「嘘でしょ。。」と真顔でつぶやきました。
それはありえない、とでも言うような、変な反応です。

「猫と同じくらいの大きさだし、慣れた感じだったよ?」と妙だなぁと感じつつそう言うと

「猫? 犬じゃなくって??」 とまたしてもおかしな反応。
あ、何かと勘違いしているな。と思った私は、スマホの画像検索でハクビシンの写真を探し、彼に見せました。
これでスッキリ解決!と思っていたら、そこから思わぬ方向に話が進んでいったのです。

写真を見た彼は、なんとも言えない表情で

「前住んでいたところで借りていた駐車場で、ハクビシンを見たって話し覚えてる?」と聞いて来たのです。

そう言われると、確かにそんな話があったことを私は思い出しました。
「そういえば前にそんなことあったね!それならわかるでしょ、ハクビシン。」
「俺が見たの、コリー犬くらいの大きさの生き物だったんだけど。。。」
「???」

彼の話を再現すると

その日は仕事で自分の車を使い、夜の23時頃に駐車場に着いたのだそう。(普段はバイク通勤)
疲れたな〜と、すぐに車から降りずに運転席でしばらくボーッとしていると、
白い、犬のような生き物が視界に入って来たのです。

『犬?でも犬じゃないような、、、 なにあれ??』

そのままとりあえず様子を伺っていると、
コリー犬より少し大きめで、フワフワした白い毛に覆われた動物が、
迷うそぶりもなく真っ直ぐにむかって来て、隣の車との間を通り過ぎていったのだそう。
ちなみに、車の中にいた彼には気がついていない様子だったそうです。
駐車場のすぐ裏手が大家さんのご自宅なのですが(木々が鬱蒼としている大きなお宅)
その敷地の中に入っていったとのこと。

そして帰ってすぐ私に話したのです。
(顔が)長くって、白っぽい、犬みたいな動物を見た!!と、
私は長い、白い、というキーワードから、ハクビシンじゃないか
と言ったのですね。
彼は、それっぽい名前に妙に納得して、そうか、あれがハクビシンか!と思い込んでしまった。

「そうか〜、あれはハクビシンじゃなかったんだね!
じゃあいったいなんだったの??」
『。。。。。。』

その時の話を詳しく聞くほどに、あれは動物ではなく、普通は目には見えない類の存在に思えました。

パートナーは、小さい頃から度々こういう不思議体験をしているタイプ。
私はそうした話を聞くたびに、羨ましいぞ!と思ってしまうのですが、
「 ”白い” っていうのが、なにか神聖な感じがするよね!」と いいな〜!のテンションで私がそう言うと、「目撃した時めちゃくちゃ怖かったんだけど、、、」と本人はぜんぜん嬉しくなさそうでした。。。

お互いに何年も勘違いしていたことが、
ふとハクビシンを目撃したことで新たな事実が発覚したという、変な時差のある不思議な出来事。

とくにそのあと何が起きたということもなく、
ただただ、あれは何だったんだ?というお話し。
オチがなくってごめんなさい。

日常と隣り合わせで、目に見えない世界は存在しているのだなぁという感動を覚えつつ、
不思議体験を求めすぎても、やっぱり引き寄せられないものなのだなと、毎年のように「UFOを見る」を一年の抱負に掲げている私は思ったのでした。

今年ももう無理かな。。。