変化の前に

またしても、すっかり久しぶりの投稿となってしまいました!

2022年3月1日現在、先のことはさっぱり分からない日々を過ごしておりますが、

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

これまでの価値観が、気づけば土台からすっかり変わってしまった。という方や、
なにか自分の内側が、ヒリヒリ、ジリジリ、フワフワ、というような

うまく説明できないけれど、変化していっていることを感じている方も多いのではないでしょうか。

かく言う私も、そろそろ変化の時であることを感じております。

こういう時ってソワソワしてしまって、見切り発車してすっ転ぶということをこれまで散々経験してきました。

何か変えないと、変わらないといけない!と力んでしまうんですよね。

自分から変化を起こしていくことも時に必要ですが、

やらないといけない!と焦っているときは一旦落ちついたほうが良かったりします。

そして、何かを始める(始まる)前に、何かを終わらせることが必要だったりもします。

インスタの方では言わなくてもいいかなと思っているのですが、こちらには書いておきます。

「水曜日のタロット」の投稿は3月からやりません。
⭐︎楽しみにしてくださった方々、今まで本当にどうもありがとうございました^^

いろいろ理由はある気もするのですが、一言でいうと”なんとなく”です。

何か違った形で水曜日のタロットNewバージョンをお届けしたいな、
とも考えているのですが、、、

次を決めないで止めるほうがいいみたいです。


以前どこかで、なかなか始められない人は、まずなにをやめるかを考えるといい、というのを聞いたことがあるのですが、

やめたくてもやめられないでいる事を終わらせれば、自然と始まっていくだろう。ということなのでしょうね。

たしかに、ついダラダラと見てしまうYouTubeをやめられたら、何かが変わる気がします・・・
(何かとは、そう、更新頻度・・・)

ヒントになるようなキーワードをもらえるエンジエルカード

海へ

波打ち際の泡のように

浮かんでは消える

悲しい気持ちも

過去からふいに押し寄せてくる

後悔の波も

海へ還してしまおう

本を閉じるように、ここら辺で一区切り

目を閉じて、ゆっくり息を吐いてから

もう一度ページを開けば

未来から届く、光を見つけられるはず

そうしてまた

新しく、物語のつづきが始まる

tale / tarot by the sea

Nude Veritas

以前 Instagramにも投稿したことがあるのですが、クリムトの”ヌーダ・ヴェリタス 裸の真実”という作品は私にとって特別な絵です。

高校生の時に無性に一人で観に行きたくて美術館に行き、長い時間この絵と向かい合っていたことが、まるで夢の中の出来事のようでした。

その美術展のタイトルは「象徴派展」。
(象徴派とは、目に見えない世界を象徴的に表現しようとした流派です)

過去と現在を繋いでいる、というだけではなく、私のテーマがこの絵には詰まっているような気がしています。

真実を表す鏡(水晶の説もある)を持った裸の女性の絵。

そして絵の上の部分には、詩人であるシラーの言葉が刻まれているのですが、

「汝の行いと芸術で多くの人々を満たせないなら、少数の人の真の喜びのためにそれを成せ。万人に好まれようとするのは罪悪である。」

という意味であることを初めて知ったとき、表現や芸術に対するとても強い意志を感じはしたものの、自分とは関係が無いことのように思っていました。

けれど、やっぱりこれは私に対するメッセージだったと、今ではそう思います。

「多くの人に好かれようとして自分を偽るのではなく、真の自分を見せてゆけ」

ずっと自分のことを、「私はどこかおかしい人間なんだ」と思っていました。
ここに居てはいけないような、、、どこにいても自分の居場所がない、そんな感覚。

ここに居ていいんだと思えるようになるには、社会に必要とされなくてはいけない。
その為にも自分を良くしていかなくては、自分を変えなくては、違う自分にならなくてはいけない。
ずーっとそんな感じでした。

けれど、私に必要だったのは、そのままの自分を受け入れる”surrenderー降伏する” ことだったのです。

社会に適応できないのが私なんですね。でも、社会の外にいるからこその視点を持つことができる。
それが私の魂の目的なのかなと、そう思っています。

降伏するというのは、ただ諦めるというより”宇宙にお任せする”という方がしっくりきます。

私は”ダメなところを改善するため”にタロットをするのではなくて、”宇宙の意図を知って、委ねるため”にしている。

委ねるのが苦手な私のところに、真実を表わす鏡の役割として来てくれたのがタロットカードなのです。

似たタイプの無敵なふたり・・・

時間の流れと、永遠

桜を見ると、様々な過去の記憶がよみがえる。
ほとんど無意識に、勝手に映像が再生されていく。

桜の花の美しさに感動しながらも、胸が苦しくなるのは、
(年齢を重ねたことも理由の一つなのだろうけど、、、)
桜が満開の季節に起きた、悲しい出来事が思い出されるからなのかも知れない。

20代の頃、当時とてもお世話になっていた方が、自死で亡くなった。
斎場に向かう途中、何度も見掛けた満開の桜の花と青い空が、自分の心の状態とあまりにチグハグで、
私をすっかり置いてけぼりにした。

時間薬という言葉もあるように、
時の流れの中で、だいぶ気持ちは変化してきた。
それでも、
桜を見た後に残るのは、”なんだか切ない、悲しい” という感覚。


時を経て分かったのは、
悲しみが消えて無くなることはないということ。
そして、
ずっと同じ悲しみを抱え続けるのもまた、無理なことなのだということ。
私は忘れたくなかったし、忘れてはいけないと思っていた。

けれどそれは、いつまでも悲しみに浸っていたいだけなのかもしれない。
自分を許さないことで、過去に閉じこもっていたいのかもしれない。

まるで、桜が満開の季節が永遠に繰り返されると錯覚しているような気もして、
何か違う、つい最近そう思えた。


時は常に流れていて、止めることも、戻すこともできないけれど、
過去に起きた出来事の意味が、書き換えられるようなことが起こることがある。

その、起きた出来事の意味を書き換える力は、過去にも未来にもなく、
自分自身が、今を生きることの中にある。

そんなことを考えるのと同時に、

理由も意味も、何もわからないままでも良い。とも思っている。

わからないことを、まるごと受け取ることがでれば、それでいい。

そのままにする

すっかり久しぶりの投稿になってしまいました。

東京に緊急事態宣言が発出されてから、二週間ほどたちましたが、
状況は、あまり良くなったとは感じられません。

いったいこれからどうなるのか、不安がないと言えば嘘になる。。。
ですが、
不安な事を考えるくらいなら(嫌でも耳に入ってくるので、、)

美しいものを見ていたい、、、

YouTubeを隙あらば見ている日々です。
(つい先日、あるアーティストにすっかりハマってしまいました。。。”尊い”ってこういう感覚なのね、と強く実感しております)

それとは別に、

最近よく思い出すことがあります。

もう何年も前に、どこかで読んだ記事で、

ある著名なミュージシャンが、

『ライブが始まって、今日は調子が悪いな。と感じた時に、調子を良くしようとはせず、調子の悪いまま演奏することが大切。』

というような事をおっしゃっていて、なるほどなぁと私の深く心に残ったのでした。

つい、調子が良い時の自分を求めてしまう。
つい、少しでも良い状態にしようともがいて、余計に悪くなる。

みたいな事、私は本当によくあります。

ライブとかそんな特別な時でなくとも、日々感じていることですよね。

なんだか今日は調子が悪いな。とか、朝はいい感じだったのに、ちょっとした事で雲行きが怪しくなった。とか、、、

それを、なんとかしようとはせず、そのままにする。というのは、

私にとっては”目から鱗”でした。

それでよかったんだ〜と、心が楽になった、というか、
そうすればいいんだなと、ひとつヒントをもらった感じでした。

毎日は流動的なもので、同じような繰り返しの日々だと感じている時ですら、同じ日は1日もない。

自分の状態って、その日がスタートしてみないとわからないものですよね。

力を抜けば浮上するのに、もがいてよけい溺れる。

頭で理解していても、なかなか難しくて、
これまで何度もジタバタしてはグッタリするを繰り返してきましたが、

少しづつ、そのままに出来るようになってきたように思います。

力を抜くのが難しくても、ちょっと一呼吸おいて、自分との距離を取れるようになったような。。。

それでも落ち込むこともあります、、、そんな時は、とりあえずもう落ち込む!それで良しとする!

不安や心配を消そうとせず、かといってがっつり向き合うでもなく、

そのままにして、やり過ごす。

そして、好きなものに浸る。

ここ最近はそんな感じです。